インプラントの心をつかむための施策
新しい治療法の効果を評価するための無作為化試験の際、心理効果をできるだけ排除するためには、対照群の患者にそれと気づかれることがないように注意しながらニセ薬を用いることが必要になります。
本当の薬とニセ薬との区別が明らかに、あるいは多少とも分かると心理作用だけで一定の効果が現われますから、患者に目かくしをしなければならないのです。
また医者の方も、どちらが本物の薬でどちらがニセ薬かをあらかじめ知っていると、本物の薬の方が効くはずであるという先入見が働きますから、正しい評価が困難になります。
そこで外見や味が全く本物と見分けのつかないニセ薬をつくり、患者側だけでなく効果を評価する立場の医者の側にもどちらがどちらなのか分からないように仕組んだ試験を、日本では「二重盲検」といっていますが、中国で用いている「双盲法」という言葉の方が気がさいていると思います。
心理療法ということもあるのですから、ニセ薬効果、心理作用が治療上無意味だといっているのではありません。
ただ心理作用を、薬そのものの作用薬理作用と区別した上で、その効果を判定しなくてはならないといっているのです。
また双盲法の場合でも、研究対象となる患者の無作為割付けが最も重要な前提条件であることは、いうまでもありません。
無作為化をいいかげんにしてニセ薬を用いたり、あとからの統計処理をいくらもっともらしく行なっても、正しい評価はできないのです。
方法論のとにかく、いかめしい診断とたあいのない治療とが同居しがちな現代の医療を立て確立を直すためには、素朴経験主義の限界をはっきりと認識し、できるだけ客観的な治療効果の評価を可能ならしめるための方法論を確立しなくてはならないのです。
個の治療の具体的内容が科学的であることはもとより望ましいことですが、同時に治療効果の正しい評価が伴わなくては患者を救うことができないのです。
要するに、個別的な臨床経験は動物実験とともに大変有力な仮説を提供しますが、それ以上のものではないことを強調しておきたいと思います。
すでにモンテニュは「うまく治ったとしても、それは病気が自然に終結しただけの話、あるいは偶然の結果、あるいはその日食べたり飲んだり、触れたりした何ものかの影響、あるいはおばあさんのお祈りなどのおかげでないと、どうしていえよう。
その上その証明が完全だとしても、その実験は何度繰り返されたのか。
偶然と暗合との長い連鎖を、それから導かれるべき法則に組み加えることが、どれほど行われたのであろうか」といっているのです。
しかし四〇〇年後の今日でも「治療はアトである」という理解が広く残っていて、医者の判断の方も大変ばらついているはずです。
そして、それをいいことにして権威主義と商業主義が大きな影響力を及ぼすのです。
二十数年前に、私は日本におけるさまざまな抗結核薬の使われ方を、各地域ごとに調査したことがあります。
結核治療の場合は当時、結核予防法の医療基準というものがあって、比較的画一的な治療が奨励されていたはずですが、それでも地域ごとにきわめて明らかな偏りが見られました。
昔から、医者の研修した大学の教室ごとに薬の選び方や手術の仕方に流儀というかクセというかがあるといわれたものです。
「亭主の好きな赤烏帽子」で、権威ある大先生の物真似をしたくなるものらしいのです。
また、わが国では同じ薬品、あるいは化学構造を少し変えただけの類似薬品が異なった製薬会社からいろいろな商品名で売り出されている場合が多いのですが、前記の調査で、ある地方ではある会社の製品がとくに多く用いられているという傾向が顕著に見られました。
当時と比べて今日では、このような権威主義や商業主義の影響はいくらかは薄らいでいるように思われますが、治療の効果の判定が主として「腰だめ」で行われているかぎり、これらの医学外的影響を完全に防ぐことは困難でしょう。
塩酸はハベリンという薬が古くから狭心症に用いられていましたが、先年、厚生省日米の差が効果が期待できないとして狭心症を「適応」からはずそうとしたところ、医者の団体が「長年、狭心症に用いて効果があると信じられているものを禁止されたら、医者が「上がったり」になる。
それに、この薬は平滑筋(血管や内臓の筋肉)の摯縮をゆるめる作用があることは薬理学の教科書に明記されている。
心臓を養う冠動脈も平滑筋からできているのだから、理論的にも狭心症に効くはずである」といった論法で適応の復活を求め、厚生省が動揺したことがあります。
ちょうど同じ時期に、アメリカでも同じような問題が起こりましたが「塩酸は四十年来広く使われていたが、無作為化試験では狭心症に有効であるという成績は出ていないし、動物実験では冠動脈の血流を増すという報告があるが、狭心症の患者ではそのような作用は全く証明されていない」などの理由をかかげてアメリカの薬務行政当局は一歩も引きませんでした。
臨床の場における偶然的な経験と動物薬理学を重んじるか、無作為臨床試験と人間自身における薬理学的研究の医学の風土の差は大きいといわねばなりません。
そして、どちらの方がより科学的であり、より人間を尊重していることになるかは明らかです。
いずれにしても、ある治療が有効であるかどうかは、そして安全であるかどうかは、専門家である医者なら常にたやすく経験的に判定できるものと考えてはならないのです。
もちろん画期的な治療法の場合は「誰の目にも明らかである」ということがないわけではありませんが、そのような場合でも、従来の治療法と比較した場合のプラスとマイナスの「程度」や、目先の効果だけでなく長い目で見た場合の究極のプラスとマイナスを正しく判定するには、一定の厳格な研究計画を必要とするのです。
まして自分の病気だけを考えている患者利害の直接の当事者である患者に、冷静な客観的判断ができるわけはありません。
病気がよくなったということは自分でも分かる場合がありますが、よくなった本当の原因が何であったかを見抜くことは必ずしも可能ではないことをわきまえていなくてはならないのです。
私は、今日行われている薬その他の治療法の多くが無効あるいは無意味であるといおうとしているのではありません。
十九世紀以来の医学と薬学が創出した薬その他の治療法が病気を治すことを助ける上で目覚ましい寄与をなしとげたことは疑いのないことです。
ところが全体としての輝かしい進歩に便乗して、メリ。
トとデメリットが十分客観的に確かめられているとはいえない多くの薬や治療法がはびこり、それが単に医療経済の面だけではなしに、本質的な部面において今日の医療を蝕んでいるおそれが大きいと考えるのです。
それを自分勝手に薬として売り出すわけにはいきません。
どこの国でも政府に申し出て審査を受け、発売の許可を得なければならないのです。
薬は人命にかかわるものですから一般の商品と違って厳重な取り締りの対象となるのですが、そのさい動物における薬理作用や安全性についての試験(前臨床試験)の成績と、患者に用いた場合の効果と作用についての無作為化試験を中核とする詳しい臨床研究の報告をまとめて提出し、国の定めた基準に基づいた審査に合格しなくてはならないのです。
このような国家規制は、サリドマイド事件を契機として一九六二年アメリカにはじまり、現在ではすべての先進国に定着しているのですが、日本では一九六七年以来のことです。
そこで一九六二年(アメリカ)、あるいは一九六七年(日本)以前にすでに発売が許可されていた薬についても、これらの年に定められた規準に基づいて、再評価を行うことになりました。
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